山本五十六名将説を問う

真珠湾奇襲攻撃が成功したことで、山本五十六元帥は東郷平八郎と並ぶ名将とよばれることが多い。それははたして真実だろうか? 事実は、日本は幾隻かの戦艦と引き換えに、途方もない戦略的大失敗を犯したのではないか? そのような観点からの論評はないわけではないが、大勢はいまだに山本名将説がまかり通っているのは驚くべきことである。日本は戦後74年たってもいまだに戦略的判断ができすに、戦術的勝利を語り継いでいるようだ。
名将説を語る人々は、アメリカへの宣戦布告が駐米日本大使館の事務が錯綜したことで真珠湾空襲後にアメリカ側に手交されたことを単なる事故ととらえて看過しているが、世界的事実は真珠湾攻撃は「宣戦布告なき奇襲攻撃(パールハーバーでの史跡案内ではsneak attackと呼ばれている)」すなわち卑怯卑劣な攻撃とみなされているのだ。
論者の多くは「山本はくれぐれも開戦に後れを取らないように手交時間を厳命していた」と山本の責任ではない、とみなす。しかし、そこにこそ山本的思考の弱点があると思うのだ。作戦手順の時計細工のような精緻さ、である。現にワシントン大使館は文書の体裁を整えるのに時間を取られて、事前に手交するという最大目的の実現に失敗した。その理由の一つに奇襲を成功させるために、時間設定に現実的な余裕を持たせなかったことがあげられるべきである。図上演習と違い、現実世界には判断ミスと想定外事態が出来するものだ。確実にアメリカ側に宣戦布告文書が手渡される余裕をもって空母から攻撃隊が発艦する手順とすべきだった。それでは奇襲の意味がなくて自軍の被害が甚大になるというのなら、それは実施すべき作戦ではない。
山本の欠点は、ミッドウエー作戦でも如実に現れた。敵艦隊を誘い出し撃滅するとともに、ミッドウエー島を占領する、という日本艦隊にとっては相矛盾する二つの戦術目標が提起された。艦隊撃滅戦と島の占領とはまるで性格の違う戦闘である。結局はこれが命取りとなり、日本海軍空母群に待機する攻撃隊は最初ミッドウェー島爆撃用の陸用爆弾を装備していたが、遅れて入電した「敵空母発見」の報に慌てて艦船攻撃用の徹甲爆弾に切り替え中に米海軍機の急降下爆撃を受けたちまち3隻の空母が被弾炎上したのだ。
戦場では過誤がつきものである。現場指揮官は(特にレーダーのない当時は)暗闇で手探りしているようなものである。正当な判断が下せるような情報を持っているとは限らない。現にミッドウェー作戦では巡洋艦利根の偵察機発進が遅れ、その索敵担当範囲にいた敵空母の発見が遅れたのだ。現場では敵空母が見つからないので至近にいないと判断、陸地攻撃に切り替えていた。そこに敵空母発見の報が来たのだ。
機動部隊の南雲提督が航空出身じゃないから判断できなかった、という論評もある。だが彼の脇には源田航空参謀もいた(彼もまた名将と語り伝えられているが、果たしてどうか)。本来なら勇将山口多門少将のように「(陸用爆弾のまま)即時攻撃発進」という運動神経のいい判断ができる人材が南雲の司令部にいるべきだった。だが日本海軍の組織は、例え山本がそのようなタイプの人材を望んだとしても、それを実現できるような人事システムではなかった。だとしたらなお、そういう判断が出来ないリーダーが多いという前提のもとに、現場(戦場)での過誤の少ないシンプルな作戦であるべきなのだ。
真珠湾攻撃に話を戻そう。山本の頭には「宣戦布告なき奇襲攻撃」は絶対避けねば、という思いはあったはずだ。だが宣戦布告後に攻撃が奇襲として成功させるため、宣戦布告と奇襲攻撃の時間差のマージンが少なすぎたのではないか?ここに山本の誤算があったと思う。山本の頭には宣戦布告の後には哨戒機がハワイ周辺を偵察する(=機動部隊が発見されるかもしれない)、パールハーバーも空襲に備える、その後の攻撃では戦果が少なくなり、機動部隊の損害が大きくなる、という計算があったろう。五分五分の戦果ではその後の対米戦が持たない、圧勝する必要があった。そのためには宣戦布告の「直後」に奇襲攻撃するのが一番有効だという判断だ。確かに奇襲は成功したが、それで良かったのか?

ミッドウエー作戦においても、主目的はあくまでも敵空母群の殲滅、ミッドウェー島の占拠は付け足し、という了解が日本機動部隊のあらゆるレベルの指揮官にあったか? 疑わしいところである。二兎を追ったがゆえに結局は一番大事なところで現場の判断ミスを誘発した。
この二つの作戦に共通する時計細工のような精緻さは、黒島亀人参謀の発案だが、背後には賭け事好きの山本の性向があったのではないか。手の内のカードはギリギリまで精緻に練り上げるという性向。だがそれは実戦の阿鼻叫喚のなかでは弱いのではないか。現場では混乱すれば混乱するほど、単純な思考が強みを発揮する。そのような発想がなかったと思えるのだ。剃刀の切れ味ではなく、鉈のような大まかさが錯綜した戦場では力を発揮する。あるいは山本の頭には、若き日に参加した日本海海戦のような大向こう受けする鮮やかな作戦の展開が頭にあったのかもしれない。

歴史で if を語ることは愚かなことだがミッドウェーの敗戦はあまりにも悔しいので、ミッドウェー島占領作戦がなく敵空母撃滅だけを目標としていたと仮定してみよう。まず米海軍の急降下爆撃隊が日本空母の上空に達した時点で爆弾を徹甲弾から陸用爆弾に転換するという作業が行われていないということになる 。陸用爆弾と徹甲爆弾の変換は実は莫大な作業である。主甲板もしくは航空機収納甲板ではてんやわんやの騒ぎであったろう。まずこの大作業がない。急降下爆撃機及び雷撃機は徹甲弾もしくは魚雷を積載すれば済むだけのことなのでそれを常時装備していればよいことになる。
この時間帯はたまたま空母直掩機の燃料補給時間帯にもあたっていたが、陸用爆弾への変更がなければ爆撃機もしくは雷撃機の中で余裕のある機体を偵察機として上空に配備しておくことが可能だったろう。そうすると少なくとも敵爆撃編隊が空母真上に来てからようやく気づくというようなことはなかったと思われる。3空母が同時に炎上するという悲惨なことはなかっただろう。作戦を簡単にするということはこのように戦場の現場にある戦闘部隊にとって色々な作業が極めて簡潔になるということも意味する。

ヒットラーに欧州大陸のほとんどを占領され、ダンケルクから辛うじて残存兵を脱出させたイギリスのチャーチル首相は、アメリカのルーズベルト大統領にドイツに参戦せよ、と連日とも言っていいほど(電信で)懇願していた。だが、チャーチルの参戦懇願に対して、ルーズベルト大統領は大量の軍需物資の援助は実施しているが、対独参戦だけは叶わなかった。アメリカ世論は対独宣戦布告の熱が高まっていなかったからである。空の英雄リンドバーグはドイツのゲーリング元帥(第一次大戦時は戦闘機パイロット)に招待されてドイツの空軍力を目の当たりにしてその空軍力を称賛していたし、自動車王フォードはナチのユダヤ人政策を秘かに支持していた。なにより戦争は海の向こうのことであり、第一次大戦に参戦したことでアメリカは10万人もの戦死者を出していた。軍需物資を運ぶ輸送船がUボートに攻撃されてアメリカ人も殺傷されていたにもかかわらず、アメリカの参戦熱は低かった。ルーズベルト大統領にとっては何らかの打開策が必要だった。
ルーズベルト大統領は参戦の機会を日本に見出していた。日本ドイツイタリアの三国同盟により日本と戦争すれば自動的にドイツに参戦できるのだ。日本への原油輸出禁止やABCD包囲網の形成(アメリカ、イギリス、オランダ、中華民国)で日本を追い詰めていたし、真珠湾攻撃直前には最後通告に等しいハルノートを日本に渡している(この事実はアメリカ国民には伏せられている)。ルーズベルト大統領による真珠湾攻撃陰謀論も元大統領ハーディングをはじめかまびすしい。だがここではルーズベルト大統領の陰謀論はひとまず置いておく。起こった事実だけが重要だからだ。そういう中での真珠湾奇襲であった。

宣戦布告なき真珠湾攻撃(アメリカ側の視点)と甚大な損害は、ガソリンが充満した部屋にマッチを投げ入れたように即時的な世論の大爆発が起こった。アメリカは旧型の戦艦数隻と引き換えに、圧倒的な正義を得た。卑怯卑劣な奇襲攻撃に復讐の炎に燃えて立ち上がる民主国家アメリカというシナリオが確立したのだ。
ルーズベルト大統領の議会での開戦演説がある。YouTubeで見ることができる。
【日本語字幕】ルーズベルト大統領-「対日宣戦布告要請演説」~Roosevelt speech”Day of Infamy”(Japanese Subtitles ) https://www.youtube.com/watch?v=XIgPpa3ZsEY
「12月7日(日本時間12月8日)はアメリカが永遠に記憶すべき屈辱の日となった」と始まる演説は、アメリカが太平洋の平和のために日本からの懇願に応えて日本と協議しているさなかに、計画的で残虐な攻撃を受けた、アメリカ人の命が奪われた、と続く。直前の11月26日(日本時間27日)に日本に突き付けた最終通告ともいえる「ハル・ノート」については一切触れない。そして「正義に基づいて完全な勝利を勝ち取る」と結ぶ。議会は党派を超えてこの演説に熱狂した。世論操作が巧みなルーズベルト大統領が”Day of Infamy”(屈辱の日)と名付けた12月7日(日本時間は8日。真珠湾攻撃の日)は全アメリカ国民の合言葉となった。
アメリカはこれで対日参戦について一瞬にして完全な一枚岩になった。参戦論非戦論いろいろあった中で、この“卑劣な”攻撃に対しての復讐の炎が燃え上がったのだ。
全米の徴兵事務所には若者が押し掛けた。『CROSSING THE LINE 』(註1)によると、体格検査で不合格になって失望のあまり失神する若者がいたという。スピルバーグ監督がプロデュースしたシリーズドラマ『The Pacific』の原作者ユージーン・スレッジは医者の父親が彼の病弱さを心配して猛反対したにもかかわらず何度も入隊検査を繰り返してついに海兵隊に入隊出来た。(註2)このようなエピソードが全米中にあった。
元々この頃のアメリカは親日国ではない。中国人を始めとしたアジア人に差別意識の強い社会であったが、日本人移民が勤勉で土地を買い、日本人としてのアイデンティティを大切にして自分たちのコミュニティを持つことへの警戒感から、日本人は差別の格好の標的となり、「排日移民法」という、極端な差別意識丸出しの法案まで成立させた(1924年)国柄であったことも忘れてはならない。
たった一日で「卑怯卑劣なJapはいくら殺しても殺したりない」という心理にアメリカ中が陥ったのである。米海軍機動部隊の指揮官の一人であるハルゼー提督のモットーは”Kill Japs, kill Japs, kill more Japs”だった。折に触れて道徳性の高さを誇示したがるアメリカであるが、真珠湾攻撃は見せかけの道徳性の背後に隠れた残忍さを恥ずかしげもなく露呈させる機会を与えてしまったといわざるを得ない。東京大空襲を始めとして各地の都市を焼き尽くし、最終的には広島長崎の原爆投下にたどり着く残忍さに、正当性を与えたのだ。
ルーズベルト大統領も日本に全く親しみを感じない政治家であった。それどころか当時一般的であった「アジア人種劣等説」に染まってもいた。富裕な一族に育ち、幼少期から成人に至るまで彼にNoを言う人もなく、海軍次官(上院議員当時)として長期にわたって米海軍の後ろ盾になったこの大統領にとって、米海軍はMy Navyであり、海軍人事においても嫌いな士官の昇格を拒んで人事を私した狭量な人物である(『海軍戦略家キングと太平洋戦争』谷光太郎)(註3)。国内に強力な非戦論が無ければ、とっくに日本との戦端を開いていたに違いない人物なのだ。そこから「真珠湾攻撃謀略説」と言う、アメリカ側がすべて知っていてあえて奇襲攻撃に仕立てた、という話も出てくる。ここでは当時合衆国艦隊司令長官であったキング海軍大将が真珠湾攻撃の報を聞いた時、“無言だった”という(『海軍戦略家キングと太平洋戦争』谷光太郎)事実を挙げておこう。海軍の制服組のトップが虎の子の戦艦群を一挙に失いながら無言でいられるものだろうか。「予期していた」と勘繰られても仕方あるまい、と述べるにとどめておく。
山本提督は在米経験もある。1919年から1921年にハーバード大学に海軍留学生として学んだ経験も持つ。アメリカの国力も十分に認識していた。ただ、アメリカ人のメンタリティーは正確に把握していたのか、という疑問が湧く。当時の日本軍人のアメリカ兵観は共通して「女の尻ばかり追い回している奴らで、大和魂の日本男児とは全く違う軟弱者」というものだった。
これは決定的に間違っていると言わざるを得ない。独立戦争、南北戦争、米西戦争、第一次世界大戦参戦、どれをとっても彼らの敢闘精神は恐るべきものがある。むしろ残虐行為を平気で行う側の人間だ。そして勝つためには何事も徹底して行う執念の強さ。戦車のネーミングにもなったシャーマン将軍は、南北戦争時、南部の都市を焼き尽くし、皆殺しを奨励した。のちの日本大空襲につながるDNAはアメリカにあったのだ。日本の政権担当者や軍幹部はこれらを完全に見過ごしていたと思う。山本の頭には、そのほかの当時の軍部指導者にも共通するが、緒戦を有利に展開して、どこかで停戦に持ち込むという腹だった。
このような自分勝手な考えは戦略とは言わない。「希望的願望」というべきであろう。アメリカはテキサスの独立を守るために「アラモ砦」で全滅したデイビー・クリケット等を讃える社会である。殴られたら殴り返すのが当然、それが出来ないのは臆病者、という考えは西部劇の中だけの話ではない。アメリカの社会に連綿と受け継がれている「思想」なのだ。だからアメリカ社会は絶対に銃を捨てない。そんな社会が奇襲攻撃を受けて、その後も優勢に戦争を進められないからといって停戦を受け入れるはずがないのだ。アメリカのある種の文化的心理的徹底性を理解する力が山本にも決定的に欠けていた。知米派であったにも関わらず。
真珠湾攻撃は、アメリカに徹底的に日本をたたく正義の杖を与えた。それは原爆という悪魔の兵器を日本民族で実験することまで許すことになった。そして日本占領の期間にかつての日本的な社会や文化や習慣を徹底的に破壊するに至った。
アメリカという社会を十分に研究したうえで立案している軍事作戦がどのような結果をアメリカ社会にもたらしどのような反応を生み出すか、誰も考えなかった。
山本は徹底的に日米開戦に反対だった。回避の努力も必死にした。鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』(註4)によると、最後は直接天皇が開戦反対を決断するよう、拝謁して説得まで企図したが木戸幸一内大臣によってその機会は失われたという。
山本は圧倒的な少数派だった。開戦すれば必敗が読めていた。歴史の歯車に抗しきれず、戦わざるを得なくなってからは緒戦に大戦果を挙げてアメリカと和平講和に持ち込むことを考えた。そこまではいいとしよう。
だが、時計細工のような緻密さ好みと賭け事好きの勝負勘が災いした。
宣戦布告の手交は真珠湾攻撃に間に合わず、日本民族に卑劣卑怯のレッテルをことを許してしまった。ミッドウェー海戦では機動艦隊を失い、緒戦の勝利はあっという間に霞んでしまった。
不思議なことに戦前の決定権者(この場合は、陸海軍省の課長クラスから陸海軍大臣などの閣僚、総理までを含む)の間で、日本が開戦(真珠湾奇襲攻撃を始めとする南方での電撃作戦)した場合のアメリカの反応を予測する行為や言動が全くなかったことだ。思いつく余地もなかったといえよう。孫子の兵学はよく浸透していたから相手を研究しなかったわけではない。だがそれは純粋な兵力比較にとどまり、わずかに経済力比較があったくらいで(註5)、それも軽んじられた。アメリカは日本と開戦したあと、通訳を大量に養成し(ドナルド・キーンはこのシステムで生まれた)、占領にあたっては日本の文化と民族性を徹底的に分析した(ルース・ベネディクトの『菊と刀』が生まれた)。その徹底ぶりは気味が悪いほどで、そこから戦前の全否定、日本の歴史の否定が徹底され、それに異議を申し立てるものは「歴史修正主義」と呼ばれる戦後が生まれた(これは人種差別と同等の重罪、原罪として認識されている)。
山本ひとりにそれを見通せなかったというのは酷に過ぎることはわかっている。彼もまた「時代の人」である。比較社会学どころか、まともな社会学さえ成立していなかった当時の日本の限界である。
ならば終戦後74年経過した今、真珠湾攻撃の戦略的意義と是非を問う声が未だに上がらず、戦果のみを讃えるのはいかがなものか?
その戦果とて、狭く浅い真珠湾で魚雷を正確に放った飛行士たちの技量は素晴らしかったとしても、宣戦布告のない休息日の日曜日の朝、襲われた戦艦群は言わばSitting Ducksであり、成功して当たり前、とも言える。それを74年後の今に至っても「戦術的勝利」と讃えるのは、もっと恥ずべきである。(2019年7月)

註1 『CROSSING THE LINE 』Alvin Kernan 1994  ワイオミング州の貧農に生まれた若者 Alvin Kernan が太平洋戦争勃発とともに徴兵され、空母エンタープライズに航空機搭載爆弾係の水兵として乗り組み、ミッドウェー海戦に参加した。彼によれば、「まず高空の敵機群に高射砲が打ち始め、敵機が弾幕を突破して射程内に入れば高射機関銃が射撃を始める」と教えられたが、ミッドウェーのその日、高射砲が打ち始めて間もないうちに機関銃が斉射を始め、海上を突進して甲板すれすれに飛び去る日本海軍機を甲板上の航空兵が拳銃で撃った、という。日本海海戦とはまるで違う鳥肌が立つような近代戦の速度感覚ではないか。Kernanは下甲板で爆弾を搬送中に日本機の爆撃を避けようと急舵をとる空母の艦体が大きく傾斜するため数百キロの爆弾が転がらないように必死で抑え込んでいたという。彼は航空兵への転科を志願し、空母レキシントンで雷撃機TBFアベンジャーの射撃手となる。夜間編隊飛行中に国民的英雄である戦闘機パイロットO’hare少佐(シカゴ国際空港にO’hare Airportとして名を留める)を誤射して撃墜してしまった可能性を示唆している。復員後、シェイクスピアやドストエフスキーに傾倒、エール大学で教鞭をとり、プリンストン大学で英文学大学院の学長となっている。『CROSSING THE LINE 』は水兵の視点から描かれた太平洋戦争の最高ドキュメントの一つと私は評価している。

註2 ユージン・スレッジ Eugine Sledgeは 太平洋戦争に参加するために海兵隊に入隊、ペリリュー島などでの凄惨な実戦体験を”With the Old Breed: At Peleliu and Okinawa” として1981年に発表。太平洋の孤島の密林における凄惨な死闘が、敵兵(日本兵)への憎悪を醸成していくさまを活写した優れた戦争ドキュメントとして評価され(ノーマン・メイラーの傑作『裸者と死者』は優れた瞑想文学であり、実戦の体験描写はない)、スピルバーグが製作総指揮をしたHBO”The Pacific”の原作の一つになった。彼もまた復員後、動物学の教授になった。

註3『海軍戦略家キングと太平洋戦争』谷光太郎   第2次大戦期を通じてアメリカ海軍制服組のトップであり続けたキング提督の優れた伝記。米海軍きっての戦略家であり、ルーズベルト大統領の信任が厚く、米英首脳会談ではヨーロッパ戦線への重点的兵力と資源の分配を主張するチャーチル等に対し太平洋戦線の重視を主張し、チャーチルとその幕僚たちから蛇蝎のように嫌われても一歩も引かなかった。ニミッツ等の前線指揮官らを緊密に束ね、全戦線を詳細に掌握した。日本海軍には(井上成美や米内光正?)いなかったタイプ。酒飲みで漁色家。心を割った友人もいなかった。

註4 鳥居民 1929-2013 晩年に評価の高まった史家。太平洋戦争及び中国共産党に詳しい。2010年刊の『山本五十六の乾坤一擲』は戦争突入寸前に戦争回避のために山本五十六が取った行動を解明した。1941年11月30日、高松宮が昭和天皇と対峙したのは「海軍は対米戦争に自信がありません」を言うのではなく、「山本連合艦隊司令長官を今直ちにお召しになり、長官から直接アメリカと戦争をしてはならないという理由をお聞きください」との話をしたはずだというのだ。だが機動部隊はすでにハワイまでの航路の半分に達しており、陸軍の部隊はマレー半島に上陸するために海南島に集結していた。昭和天皇は自分が個別の命令を出してはいけない、と憲法に鑑みて自分を律していたから、高松宮との話は喧嘩別れになってしまった。既に陸海軍の部隊が展開している状況も大変な重荷になったろう。その昭和天皇を納得させたのは木戸幸一内大臣だという。彼は天皇に山本に会う必要はない、会えば山本本人に傷がつくだけでなく、多くの人間(特に海軍大臣と軍令部総長等)に迷惑をかける、と説得したはずだ、と木戸の日誌から読み解いた。山本の最後の乾坤一擲(天皇に直接直訴して戦争に向かう歯車を止める)は木戸に阻まれて実現するに至らなかった、と主張している。

註5 猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』 昭和16年7月に「総力戦研究所」として模擬内閣が立ち上がり、当時の官民エリートによって日米開戦のシミュレーションが行われ、日本必敗の結論が出たが、実際の国策には全く反映されなかった。