最近、iPadの青空文庫のおかげで、近世文学に親しんでいる。幸田露伴の「五重塔」はごく短い小説だと思っていたのが結構長く、しかも文語体と口語体の端境期で江戸文学の残り香もあり、思いがけない発見だった。
有島武郎の「カインの末裔」と「生まれいずる悩み」は、どちらも開拓期の北海道を舞台にした、私が勝手に思い描いていた有島武郎の世界とはまるで違った、手斧で生木を削ったような荒々しい人物造形と過酷な北海道の自然描写とその中で潰されそうになりながら懸命に生の営みを繰り広げる世界に圧倒された。この開拓期の北海道の自然の描写の凄まじさは、以前読んだ小林多喜二の「蟹工船」も同様で、多喜二は実際に蟹工船に乗って操業した経験があるのではないか、とまで思わせるものだった。
有島武郎も小林多喜二も開拓期の北海道に生き、自然の 凄まじさを実際に体験しているだけに、これらの作品が実ったことは後世の我々にとってはこれらの作品を通してあの頃の北海道の生活を追体験できることは実に大きいと思う。
そういうわけで、次は誰にしようかと迷いつつ、選んだのが夏目漱石の「三四郎」である。
「それから」「門」にいたる前部3部作の1作目に位置付けられるということで、決めたものである。
読み始めて見て、自分の中に夏目 漱石体験が殆どないことに気がついた、情けないことだが。
冒頭に書いた諸作品に比べると、まるで現代の小説のような気がしてきた。考えてみれば、これは「我輩は猫である」の文体世界そのものである。つまりそれほど私は夏目漱石を読んでいなかったことに他ならない。
さて、だが、ここでは漱石の文学について論じるのではない。実は、漱石を通して見える当時の世界と現在との遠い懸崖についてである。
小説は、三四郎が上京のため乗っている列車の三等車から始まる。同じ車両に乗る人々への三四郎の観察が続くのであるが、その中に若い女性もいる。彼女の動きに気をとられながら、三四郎は弁当に手をつけるのだが、やがて食事を済ますと三四郎は空になった弁当の折り箱を車窓から投げ捨てるのである。しかも その時窓から顔を覗かせていた女性に折りの蓋が風に吹かれて女性の顔にかかるのである。
これは正直驚いた。天下の文豪である。その肖像は紙幣のデザインにまでなった。その人が弁当箱を車窓から当然のごとく投げ捨てる。その行為に何の呵責も感じてはいない。
途中名古屋で一泊した(列車の目的地。いきなり東京まで乗れることはなかったようだ)三四郎は翌日の東京行きの車内で教養のある男と話をするのだが、この男も「さんざん食い散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。」のである。
ここに至ると、この頃は列車の客はゴミを全て車外へ放り捨てていたと断じざるを得ない、残念ながら。三四郎はこえrから東京の大学(東京帝大)へ入学する身。男は、レオナルド・ダビンチを語りながら、である。
それで思い出した。私が子供の頃、列車の大便所の穴からはレールが見えていた。つまり便所に放出されるものは尻拭き紙も含めて全て車外に垂れ流しだった。乗客が窓を開けて風を受けていれば、その気持ちよさとは裏腹に目に見えない糞尿にさらされていたのだ。中学生の頃だったか、その話になって、「踏切で待っていた時、列車が通過したら頬が濡れた」という体験談を聞いたものだった。
密封式のトイレを見たのは、新幹線が始めてだったと思う。
列車の乗客にとって、車外はゴミ捨て場だったのだろうか。今となっては仔細に思い出せないが、私自身も車窓にごみを捨てたような記憶がかすかに残っている。
幕末から明治、日本を訪れた外国人にとって日本の町並みの美しさ、清潔さは驚きだった。現に今に残る当時の写真で見ると、街道筋などは見事に掃き清められ、塵一つ見えない。
その日本人が育てたこの乗車マナー、どう読み取ればいいのだろう。
「汽笛一声」新橋から走り始めた列車は、当時の最先端の、いわばハイテクそのものである。乗車することだけでも、箔がついたろう。とすると、車内と車外は一線を画した別世界、そこへゴミを投げ捨てるのは当たり前だったのだろうか。
一時期、ほんの二十年前ころまでは、高速のインターの出口などや裏道によくゴミが捨てられていたものだ。これも同じ心理だったのだろうか。
三四郎ショックは続く。やがて本郷の大学に通うようになった三四郎は、誘われて町へ出て、電車の轟音に神経を逆撫でされるのだ。今まで住んでいた田舎の町では全く無縁な、恐ろしい轟音。ただし、この電車は、今の東京では荒川線で辛うじて生き残っているチンチン電車のそれである。今の山の手線の駅に鳴り響く、発車を知らせる無神経な電子音の洪水の中に立ったら、漱石先生は卒倒されるだろうか。(2013年4月)