日米開戦と海軍反省会

「海軍反省会」を読んだ。終戦時、佐官クラスであった海軍の高級将校20名ほどが時には将官クラスを交えて「このままでは実相が語られないまま忘れ去られてしまう」という危機感から昭和から平成に渡って「なぜ日本は開戦したのか?なぜ海軍は止められなかったのか?海軍の組織としての問題点は何だったのか? 海軍はなぜ敗北したのか? 」ということを真剣に討議した内容の記録である。かつてNHKがその内容を番組で特集したのを見た記憶はあるが、実際に記録に目を通したのは2019年の12月中旬からである。(註1)

その討論内容は実に多彩にわたるが、要約すればおおむね次のような点が挙げられている。

◦兵学校(海軍士官養成)、海軍大学校(高級将校を対象に海軍の未来のリーダーの育成)において、国策と戦略の観点からの教育がほとんどなく、戦術レベルの教育に終始した。

◦人事が硬直化しており、兵学校の卒業席次(ハンモックナンバー)にとらわれ、官僚的な人材配置に終始した。航空隊や潜水艦隊の統率者に専門家ではなく、その分野を何も知らない素人を配置する愚かさが顧みられなかった。

◦軍人と言っても、昭和になれば職業軍人化し、決死の覚悟で難局に取り組む人材がいなかった。

◦昇進に際して試験などがなく、士官たちは専門分野の知識と技術の習得に邁進するのみで大きな視野を持つことがなく、海大卒の提督たちは殆どが勉強を怠っていた。

◦「サイレントネイビー」を標榜した弊害で、開戦前の大事な局面で及川海軍大臣が陸軍の暴走に決死の覚悟で抵抗することがなかった。

◦米内光正海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長という三国同盟ひいては対米戦絶対阻止の良識派トリオが中央を離れた後、永野修身大将が軍令部総長となり(しかも後に元帥に昇格)、開戦に懐疑的な昭和天皇に「(米国相手に)二年は持つ」と根拠のないまま言上してしまう。

◦昭和16年6月の独ソ戦開始に陸軍参謀本部の作戦課(服部卓四郎や辻政信ら)がチャンス到来といきり立ち(ドイツがソ連に勝ってしまった後では日本はドイツに相手にされなくなる、という理屈)それに呼応する海軍の中堅幹部たちが勢いづいて海軍内部で対米主戦派が台頭、ドイツ軍の攻勢がモスクワ前面で停滞している、という駐欧州武官からの貴重な極秘情報を叱り飛ばす愚を演じる。

などが(日本人的には珍しく)特定個人の名を上げてその責任が率直に論じられている。中でもミステリーは、駐米武官もやりワシントン軍縮会議にも参加してアメリカの巨大さを肌で実感しており「対米戦」はあり得ない、と言い続けると思われた永野修身軍令部総長(当時大将)が最終的に陸軍とともに開戦へ舵を切った理由である。終戦直後に反省会のメンバーが永野本人に質したところ「戦争をやらなければ内乱になる恐れがあったのだ」と言ったという。

時代の「空気」というのがある。時が経つとそれを実感するのが極めて難しくなる。私は昭和22年、終戦から2年後の9月に生まれたが、あの時代の解放感を思い出すことが出来る。すし詰めの映画館で最後列に立つ父の肩車で見た黒白のスクリーンにはコンクリートの廃墟でドラマが展開していた。“若く明るい歌声に雪崩も消える花も咲く”と言う「青い山脈」や“赤いリンゴに唇寄せて黙ってみていた青い空”の「リンゴの唄」の歌声は底抜けに明るく希望感に満ちていた。長く辛い戦争が終わった解放感がそこら中に溢れていた時代だった。だがそこから僅か十年前には全く違う「空気」が日本を覆っていたのだ。昭和12年の2月の二二六事件、陸軍若手将校らによるクーデター計画は日本を、中でも海軍中枢を震撼させた。雪の日に起きた事件らしく、「海軍反省会(1)」によればまさしく海軍の心胆を心底凍らせたといってよい。陸軍海軍ともに強大な武力を持つ巨大官僚組織である。それが日露戦争後は交流も対話も殆ど無く、互いにけなしあい、予算を巡って憎みあう組織になっていた。陸軍は大陸軍国であるソ連を徹底的に恐れ仮想敵と見ていたが、海軍は太平洋で対峙するアメリカとその海軍を宿敵として恐れていた。陸軍は満州事件あたりから関東軍が陸軍中央の統制を無視し、また中央も厳しく統制するというよりは事後追認という曖昧な統制に堕していた。右翼の跳ね上がりも激しいものがあった。二二六事件の年、第二次上海事変が起こるが12月海軍機がアメリカの砲艦パネー号を誤爆沈没させる事件が発生し、アメリカとの緊張を避けたい山本五十六海軍次官は謝罪と賠償をアメリカ側に行った。こういう経緯から山本次官は右翼の憤激を買うことになる。「反省会(1)」によれば、海軍警保局長が身をもって山本次官の暗殺を阻止するために警護を行った、との証言がある。『これは何か、もういつやられるかわからない情況だった。そこらにもう非常に陰湿な陰鬱な暗雲が日本の全体 にある』そういう状況だったそうだ。こういう空気はその時代を体感していないと理解できない。また海軍が強力な艦隊を持っているといっても洋上の話であり海軍基地の陸戦隊しか武力は無い。陸軍はいつでも数十万の部隊を動員できることから海軍中枢は内乱になれば陸軍に叩き潰されるとの恐怖があった。これはもう今の時代の私たちには想像のつかない世界である。山本五十六次官はテロの及びようがない連合艦隊司令長官に転出し、米内山本井上トリオ(新聞はこの3人を、海軍左派トリオと呼んだ。テレビのない時代、新聞は世論形成に強大な影響力を誇ったが、左派という命名に当時の新聞の好戦的な空気がよく読める)が中央から去った海軍省は三国同盟の阻止に失敗することになる。昭和16年(開戦の年)になると『参謀本部の下の方は、もう内乱説ぶって、 本当に(陸軍)参謀本部が右翼がいっしょになっとった』、『海軍でも若い者が内乱を起こしかねない。嶋田(大臣)さんが俺だけでは、どうしても何ともならんということを言ってる。嶋田さんだってね、 これ大臣一人 反対したってこれ何となるもんでもない』という状況に海軍は追いつめられる。

内乱になれば太平洋でアメリカが着々と軍備を拡大している中でもはや戦機はなくなる、今なら緒戦だけでも優勢に展開できる、との窮余の思いから開戦に応じた、との「反省会」の分析である。

時代の空気、の例として敗戦後の日本社会の解放感を述べた。太平洋戦争は見通しもグランドデザインもないまま、優勢に展開すればアメリカも停戦に応じるだろうとの子供騙しの甘い夢想で巨大軍事国アメリカと戦った結果、日本は叩きのめされた。戦死者3百万人、空襲と原爆の死者被50万人、日本中の殆どの家庭に戦死者もしくは空襲の死者の犠牲を強い、都市は焼け野原となり、生産施設は灰燼に帰した。ある知人は終戦の日のことを「空襲が無い日、アメリカの飛行機が飛んで来ない日」と呆然と実感したという。だから「青い山脈」「リンゴの唄」に心が解き放たれたのであり、戦前の暗い影が今も日本人の後付けのDNAとなって、日本の安全保障も憲法改正も考えない、考えたくない、という社会になっているのだ。その代償に戦前の日本は全否定され、日本の歴史は書き換えられ、日本古来の伝統は陋習と片付けられ、日本社会の「構造改革」論が終始響き渡ることになった。たった1回の敗戦がもたらした事態はあまりにも取り返しがつかない結果を生んだ。三国同盟締結で手を組んだヒットラーのナチス、民族浄化の名のもとユダヤ人殲滅を実行した犯罪者と同列に並べられてしまう大失敗を演じたのだ。陸軍海軍はエリート揃いの筈だったが、それがなぜ開戦に突き進んだのか、頭では「のぼせ上った日本」「追い詰められた日本」など見当はつくものの肌感覚で理解が及ばず謎だったが、この反省会では当時の空気感が当事者たちから赤裸々に語られて、ずいぶん霧が晴れた気がする。

「海軍反省会」は、昭和55年3月の第1回を皮切りに、10年以上も続いた。出席者は大正から昭和にかけて海軍トップの部下として海軍省で勤務した大佐中佐を中心に議論を尽くしている。飽きやすい日本人としては極めて例外的な徹底討論であり、その記録が10冊以上となって書籍化されている。1冊を読了するのに数時間かかるほど内容の濃いものである。出席者は反省会当時に既に70歳代80歳代であり、その人々が10年以上に渡って論じ合った労力は誠に尊敬に値するが、それだけの徹底性とエネルギーを現役当時に発揮してくれれば歴史はもうちょっと違ったものになったのではないかとの恨みも残る。

だがそれは出来なかったのであろう。戦後の自由な、何でも言える社会になったからこそ、の所産であるとも言えるだろう。出席者のほとんどの方が鬼籍に入られたと思われる。事実解明の執念に感謝するが、一方で世界情勢についてリアリズムを持ちえなかった戦前の軍部に成り代わり、戦後はリアリズムを持たない空想平和主義が跋扈していることを憂慮するものである。自衛隊に交戦権を持たせないままにしておくことと、帰りの燃料を持たせず爆弾を縛り付けた特攻とは、幾ほどの違いがあるだろうか。(2019年12月30日)

(註1) Kindle Unlimitedで「海軍反省会」を読めることを知り、ダウンロードして読み始めた。購入すると1冊平均3,600円もするのでこの機会を利用することをお薦めする。