ジョン・フォード監督論

ジョン・フォード監督論|「愛国者」という誤解と、アメリカ神話を信じきれなかった映画作家

本稿では、ジョン・フォードを「愛国的な西部劇監督」という通俗的評価から解き放ち、 『駅馬車』『捜索者』『静かなる男』『リバティ・バランスを射った男』を軸に、 彼がアメリカ神話と民主主義をどのように疑い、描き続けたかを論じる。 アイルランド系移民という出自、英雄の排除、そして民主主義の成立に伴う沈黙と忘却を通じて、 ジョン・フォードを「文明を撮った映画作家」として再定位する試みである。

ジョン・フォードは“西部劇の監督”ではない。彼はアメリカという国家の自己像を映し出した作家である。

フォードは、しばしば「最もアメリカ的な映画監督」と呼ばれてきた。 西部劇の巨匠、開拓精神の賛美者、共同体と男の倫理を描いた保守的作家。 この評価は一見もっともらしい。だが、それはフォードの映画の表層だけを見た理解にすぎない。

フォードは確かに愛国者であった。 しかしそれは、国家の語る物語を無条件に信じ、誇示するタイプの愛国心ではない。 むしろ彼は、アメリカという国家が自ら語る神話を、最後まで信じきれなかった愛国者であった。


「愛国的」に見えるという誤解

フォード映画には、国旗、行進、軍服、祝祭、儀式が頻繁に登場する。 そのため彼は、国家主義的で保守的な監督だと見なされてきた。

しかし重要なのは、フォードがそれらをどのように撮っているかである。

彼の映画には、 祝祭は長く続かない。 英雄的行為の直後には、沈黙や空白が差し込まれる。 集団の高揚の背後には、必ず取り残された個人の姿が置かれる。

フォードは「国家は正しい」「共同体は美しい」と断言しない。 彼が撮るのは、そう信じようとする人々の姿であり、 その信念が孕む不安と脆さである。


アイルランド系移民という周縁

ジョン・フォードは、アイルランド系移民の子である。 今日の感覚では見落とされがちだが、19世紀から20世紀初頭のアメリカにおいて、 アイルランド系はWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)社会の中心には属していなかった。

彼らはカトリックであり、貧困層として大量に流入し、 政治的にも文化的にも「信用ならない集団」と見なされることが多かった。 アイルランド系は白人でありながら、完全な内部者ではない存在だったのである。

フォードは、アメリカ社会の内部に生きながら、 常にその中心からは一歩距離のある位置に立っていた。 この出自が、彼にアメリカ神話を無邪気に信じることも、 全面的に否定することも許さなかった。


共同体は温かく、そして残酷である

フォード映画において、共同体は重要な主役である。 酒場、教会、行進、家族、祝祭。 人々は集い、秩序を共有し、互いを支え合う。

だがその共同体は、無条件ではない。 受け入れには条件があり、逸脱には罰がある。

『静かなる男』は最も分かりやすい例である。 牧歌的な物語に見えるが、 主人公は共同体が要求する「男らしさ」を引き受けなければ、 居場所を得ることが出来ない。

暴力を拒否する者は、最終的に暴力を経なければならない。 フォードは共同体を愛している。 しかし同時に、その同調圧力と排除の構造を熟知している。


補助線としての二作品――『静かなる男』と『捜索者』

『静かなる男』(1952)のショーン・ソーントンは、元プロボクサーである。 彼はリングで相手を死なせてしまった過去を持ち、 個人的暴力の極限を知ったがゆえに沈黙を選ぶ。 だが共同体は、その沈黙を許さない。

『捜索者』(1956)のイーサン・エドワーズは、元南軍兵士である。 彼は国家的暴力の敗者として取り残され、 秩序回復のために働きながら、秩序の内部には回収されない。

どちらも、暴力を遂行できる能力を持ちながら、 その代償をすでに引き受けてしまった存在である。


ジョン・ウェインという「身体」

これら二つの役を演じたのはいずれもジョン・ウェインである。 さらに重要なのは、ウェイン自身もまたアイルランド系であったという点である。

フォードは、自らと同じ出自を持つ身体に、 アメリカ神話の光と影を背負わせ続けた。 英雄を必要とする時代と、英雄を居場所から追い出す時代を、 同一の身体に刻み込んだのである。


『捜索者』のラスト――ドアの外に立つ男

『捜索者』のラストで、イーサン・エドワーズは家の中に入らない。 暗い室内と明るい荒野を隔てるドアの外に立ち、 背中を見せて去っていく。

英雄は必要である。 だが、英雄は居場所を持たない。 フォードは、自らが育てた神話を、静かに舞台の外へ送り出す。


「水平線を真ん中に置くな」

スピルバーグの映画『フェイブルマンズ』に、 老境のフォードが訪ねて来た映画監督志望の若者(若きスピルバーグ)に語る場面がある。

「水平線は真ん中に置くな。上か下だ。真ん中は、つまらない」

これは撮影技法の助言ではない。 中立に立つな、という倫理の表明である。 フォードの映画は常に、 神話か、その影か。 共同体か、逸脱者か。 どちらかを選ぶことを観る者に迫ってきた。


晩年の総括――『リバティ・バランスを射った男』

『リバティ・バランスを射った男』(1962)は、フォード晩年の総括である。 リー・マーヴィン演じる悪漢の名は、リバティである。 自由と民主主義を象徴する言葉が、最も粗暴な暴力の名として与えられている。

一方、ジミー・スチュアート演じる人物は、 民主主義が自分について語りたがる自己像である。

話し合いを信じる。 法を信じる。 暴力を否定する。

観客は自然に、 「彼こそがリバティを倒すべきだ」 と思わされる。 だが、フォードはそれを裏切る。

実際に引き金を引いたのは、ジョン・ウェインである。 しかもそれは、歴史に記録されない影からの行為である。

フォードがやっているのは、 「民主主義は 自分が信じたい物語と、 自分を成立させた現実を、 意図的に切り離している」 という事実を、寓話として示すことである。

映画の中で新聞記者が「事実が伝説になったら、伝説を印刷する」という台詞は、 民主主義社会そのものの告白である。


余白としての回想――「ハリウッド/アメリカ」

中学生のころ、ジョン・ウェインのファンだった私は習いたての英語で、彼にファンレターを送った。 宛先は「Hollywood / America」だけだった。 それでも数週間後、アメリカからジョン・ウェインの絵葉書が届いた。

重要なのは、ハリウッド アメリカ でそれが届いたという事実である。 ジョン・ウェインは、すでに個人ではなく、 国家と産業と神話が重なった記号であった。

フォードは、そのことを誰よりもよく知っていた。


終わりに

ジョン・フォードはアメリカを愛した。 だが、アメリカの語る神話を最後まで信じきれなかった。

その不信と誠実さこそが、 彼を文明を撮った映画作家にしたのである。

参考:
ジョン・フォード(Wikipedhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・フォードia)