江戸時代は近代に先駆けた法治社会だった
フェートン号事件を調べ始めたとき、私は――正直に言えば――江戸時代について何も知らなかった。
「鎖国」「身分制」「封建」「拷問」……。教科書と通俗的イメージの束が、私の中の江戸だった。
ところが、フェートン号事件という一点を史料で追い詰めていくと、途中でどうしても立ち止まらざるを得なくなる。
奉行所はどう動いたのか。現場と江戸はどう連絡したのか。誰がどの権限で決めたのか。判断はどのような手続で固められたのか。
事件の“外側”――行政と制度の緻密さ――を理解しない限り、事件の“中身”が読めなくなるのである。
そこで私は、いや応なく江戸時代そのものを調べ始めた。
すると、最初に突き当たったのは、江戸社会が想像以上に緻密で、現実的で、しかも高度に運用された社会であるという事実だった。
その流れで手に取ったのが『江戸の刑事司法』であり、さらに若い頃に一度読んだ『犯科帳』を、もう一度読み直した。
そして私は、これまで自分が抱いていた江戸像――
野蛮で、階級制度ががちがちで、堅苦しい上に苛烈な世界――
が、あまりに粗雑で、あまりに雑な“型”にすぎなかったことを思い知らされた。
江戸の刑事司法を見ていくと、そこにあるのは単純な恐怖政治ではない。
証拠を慎重に吟味し、先入観を排し、責任能力を問い、極刑や拷問には上申と議論を要し、判例と整合させながら、なお個別事情に即して判断しようとする姿勢である。
つまり、江戸は「野蛮の反対側」にあった。少なくとも、私が想像していた江戸ではなかった。
この論考は、その驚きの記録である。
そして同時に、フェートン号事件という“異常事態”が、江戸という“平時の統治システム”の完成度を、逆に浮かび上がらせたという事実の記録でもある。
江戸は近代に先駆けた法治社会であった
近代的な法治国家は、欧州において市民革命を経て成立した――
この理解は、あまりに広く流布している。だが、それは本当に普遍的な歴史認識なのだろうか。
日本の江戸時代、とりわけ十八世紀以降に成熟した刑事司法の実態を精査するとき、私たちは否応なくこの通念を問い直すことになる。
結論を先に言えば、江戸社会は「近代に先駆けた法治社会」であった。
しかもそれは、西洋法の模倣ではなく、鎖国という閉鎖環境の中で独自に練り上げられた制度であった。
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1 裁判は「行政の片隅」ではなかった
江戸幕府には、現代的な意味での「司法省」は存在しなかった。
町奉行・代官・勘定奉行といった行政機関が、裁判機能を併せ持っていたからである。
だが、これは「司法が軽視されていた」ことを意味しない。むしろ逆であった。
裁判は「数ある行政事務の一つ」ではなく、
「天下之御政道」――統治の中枢そのものと認識されていた。
だからこそ、重い刑罰を科す場合には、必ず老中への「御仕置伺」が必要とされ、
さらに評定所という合議機関が、身分や上下関係を越えて徹底的な議論を重ねた。
評定所は老中に反論することすらあった。
ここには、権威への忖度よりも、判断の正当性を最優先する空気が存在している。
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2 証拠主義と先入観排除という発想
江戸の取調思想でもっとも注目すべき点は、「自白至上主義」ではなかったことである。
証拠が弱いと判断されれば、無理な深追いは戒められた。
吟味において重視されたのは、
• 第一に証拠・証跡
• 当日の具体的状況
• 平素の挙動
• 本人の性質
といった多角的事実の積み重ねであった。
さらに重要なのは、被疑者の捕縛を担当した役人とは別の者が、
先入観を排した立場で裏付けを行うべきだと、明確に指示されていた点である。
これは、現代で言う「捜査と判断の分離」「バイアス排除」の発想に近い。
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3 拷問は「当然の手段」ではなかった
江戸の裁判と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは拷問であろう。
捕えられた容疑者に自白させるために逆さ吊りや水責め、石抱き(算盤上の尖った木製器具に正座させて重い石を載せる)などの残虐な拷問が時代劇で流布されているからだ。
だが、実態はそのイメージとは大きく異なる。
拷問は、原則として老中に伺いを立て、是非を議論した上で判断された。
そして「拷問すべきではない」と結論される例は、決して少なくなかった。
むしろ、
威圧や暴力を用いなければ自白が得られないのは、役人としての能力不足である
という意識すら見て取れる。
これは、近代刑事司法が到達する「自白偏重批判」を、すでに内包している。
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4 責任能力という概念の存在
江戸の裁判では、「何をしたか」だけでなく、
「どこまで責任を負える存在か」が重視された。
子ども、女性、老人、障害を持つ者については、
一人前の刑罰を科すに足る責任能力を欠く存在として、減刑が考慮された。
酒に酔っての犯行(酒狂)が減刑されない一方、
精神的事情や状況に応じた量刑調整が行われている点も注目に値する。
ここには、故意・過失・責任能力といった、
近代刑法の核心概念が、すでに実務レベルで機能していたことが明白に表れている。
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5 刑罰は「威嚇」ではなく統治の一部
十八世紀に入ると、過度に残虐な刑罰は「戦国の遺風」として忌避されるようになる。
苛烈な刑罰は、かえって権力の脆弱さを示し、治安維持には逆効果――
この発想自体が、統治の成熟を示している。
将軍吉宗の主導による「公事方御定書」は、
過去の裁判例を整理・体系化した成文法典であり、
秘密法典として実務に徹底的に用いられた。
重要なのは、条文に縛られすぎず、
個別具体的事情に即して判断する姿勢が最後まで貫かれていたことである。
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6 刑罰と福祉のあいだ――寄場という発想
松平定信による寄場人足制度は、
処罰と救済の中間に位置する試みであった。
徒刑(懲役刑)そのものは導入されなかったが、
労働を通じた更生という志向は、明確に存在している。
刑罰は単なる排除ではなく、
社会秩序を回復するための現実的手段として捉えられていた。
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7 近代は突然生まれたのではない
奇しくも、欧州でフランス革命が起こり、人権宣言が発せられた時期と、
松平定信が「天下の御仕置はこの上なく重き儀」と語った時期は、ほぼ重なっている。
将軍の意向があろうとも、
「当然の儀」を遠慮なく申し上げよ――
この言葉に込められた責任感と緊張は、裁判記録の文面そのものに刻まれている。
明治以降、日本が短期間で近代法制を受容できた理由は、
外来制度の優秀さだけでは説明できない。
すでに江戸社会の内部に、法的思考の基盤が存在していたからである。
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結びに代えて
江戸の刑事司法は、理想化すべきユートピアではない。
だが、少なくとも「前近代的」「恣意的」「残酷」といった
単純なラベルで片付けられるものでは決してない。
鎖国という制約の中で、
人間の責任、証拠、量刑、統治の正当性を、
これほどまでに真剣に考え抜いた社会は、世界史的に見ても稀である。
江戸は、近代に遅れた社会だったのではない。
近代を、すでに内側から準備していた社会だった。